The Verge, Shimo-kitazawa 下北沢
半年ぶりの金沢は雪のしんと冷たい街をたくさんの人で賑わっていてとても良かった。裏日本の実際はなんといっても冬にある。水分の多い雪が延々と降っては積り、積もっては緩んで凍る。鬱々とした曇天が続く。それに加えて金沢という都市は天候が目まぐるしく変わりすぎるのが面白い。新潟と金沢はよく比較の題材にされるが、金沢に比べれば新潟はもう少し天候がいいと思うし、城下町と新興の平野ではそもそもの地盤が似ていない。それでも空気感のようなものは似ている。あと金沢には大和があるのが新潟市民的に郷愁を誘う(富山にもあるらしいが)。
東京に戻ってきたら雪はもちろんないし太陽は明るいし人間ってこんなにいるのかという驚きで不思議な気持ちになる。空気の乾燥に手指があっという間にささくれてうまく動かない。色んなことを考える。今年ももう終わる。
2020年は「無駄な労を省く」ことを始めた年で、それは今日にも続いている。とは言っても大したことではないのだが。
まず、定期入れを普通のものからリールで鞄にぶら下げるタイプに変えた。今まで使うたびに上着のポケットやら鞄やらそのときの気分で放り込んでしまい、結果電車に乗るたびにあちこち探さなくてはならないという事態を招いていた。しかし鞄に常時ぶら下げておけば、そういうことにはならない。以前から巷の小学生が使っている青や黄色の伸びるパスケースを羨ましく思っていて、もういっそあれを使うかとさえ思っていたのだが、大人向けのものも探せばちゃんと売っていた。些細ではあるが、自分にとっては重大な発見だった。
それから電子マネーを積極的に使うようになった。新型コロナウイルスの影響もあるが、札を出して小銭を出して釣り銭のことを考え、という手間がないのは本当に便利だ。脳がちゃんと元気な時は苦ではないのだが、そうでない時はこうしたことに労力を費やすのがとても億劫なのである。
これらの変化が自分の生活にある種の「楽」をもたらしたのは間違いがないのだけれども、他方ではやっぱり、疲れているのだなとも思う。かと言って今後元に戻すつもりもないのだが。自分自身の限度を理解し、取捨選択ができるようになったと考えれば、まあ良いのだろうか。それはそれで悲しくもあるのだが。
何もやる気が出ない。文章を書いてもうまくいかない。本を買うけれど読む気にならない。音楽を聴いて楽しくも悲しくもなりたくない。ただ映画だけは見ているし、映画館はこれからも行く。イングランドは再ロックダウンで各映画も撮影中止を余儀なくされているそうだが、ファンタビ3をいつまでも待つ。
最近地元のライブカメラをつけっぱなしにしている。もう何年もまともに帰れていない。ライブカメラを通して、この場所を鳥が飛んだとか、信号機が青になって止まっていた車が走り去ったとか、そういうことを逐一リアルタイムで見ている事に意味を見出しているらしい。あまり良くないことだと思う。今ここにある現実を生きていないようなものだからだ。生産性がない。
日々を生きているだけで自分の身体以上のエネルギーを消費している。コロナもあるけど、なんというか。この負債がプラスに転換しない限りは、行動に結果がついてくることはないのかもしれない。無力感に絶望したくなるけれど、今できることをやめたくはないと思う。