8巻。セオデンが奮い立ちゴンドールへ向けて勇猛に馬を進める様子を兵たちが神話の人物かと見紛う場面がとても良い。エウォインの女であるがゆえの苦悩、苛立ちが丁寧に描かれているのも良かった。それがあればこそその後の活躍は一層輝いて見える。
指輪物語の文体や言い回しは、この物語の神話的な性格に相応しいものだと思うのだが、この巻は特に痺れる表現がたくさんあった。デネソールが自分と瀕死のファラミアに火をかけての無理心中を思い立った際、高熱のファラミアの手をとって「この子はもう燃えておる」は特に好きなシーン。
それからエーコの「プラハの墓地」は、まだ15%程度。面白い。この雰囲気は同じエーコの「薔薇の名前」を帯文で引き合いに出された「グノーシスの薔薇」(デヴィッド・マドセン)を思い出す。などと言うとエーコファンには怒られるのかもしれないが、私はこの本が大好きだ。こちらも再読する機会があれば、また。
大人とはなんだろうか、とふと思う。子どもの頃考えていた「大人」は、空に浮かぶ星の名や、道端の草木の名をなんでも知っている人のことだった。生業にこそしていないけれども、私は概ねそういう人生の途中にある。現実的な話、それだけでは到底大人とは呼ばないし、自分自身にしろ、好きだから続けているというだけの話だ。その上、それらを知らなくとも「大人らしさ」には全く関係がない。大人の背中というものがあるとしたら、ただその人の振る舞いであり、生き方に他ならない。私自身が「大人のあり方」について考え続けるのならば、これからどんな選択をしようと、そのことは忘れずにいたいと思う。(副題:いいやつになれ、と霊幻は言った)
ずっとこのへんをうろついているからどれだけ写真あるんだろうかと思ったけど、2012年頃からGoogleフォトの記録があるのに東京駅で検索しても全然出てこないな。