自分が必要だと思うものが全部入る鞄は大きすぎるし重すぎる、ということに最近気がついた。横断歩道で信号待ちをしているさなかに。それからの午後は歩くのが億劫になって何もかも嫌になってきたのであれこれ持ち歩くのを諦めることにした。財布と鍵とモバイルバッテリーとハンカチとマスクと目薬。書き出してみるとこれでも多くてうんざりするな。
ずっとこのへんをうろついているからどれだけ写真あるんだろうかと思ったけど、2012年頃からGoogleフォトの記録があるのに東京駅で検索しても全然出てこないな。
怒りたい時に怒ったり泣きたい時に泣いたりできたのって何歳ぐらいまでだったんだろうな。やめるとか諦めるとか、そういうスタイルがいつの間にか自分の生き方を上書きしてしまった。そうではなかった時期ってどこだったんだろう。20歳頃には完全に目が死んでいたから、せいぜい17、8かそこらまでかもしれない。いやそんなメンタルで高校進学した気がしない。中学と同時に卒業したかもしれない。15歳とかもう記憶がないよ。でもきっと一瞬の喜怒哀楽に生きるか死ぬかという問題が詰まっていて、目の前の何もかもが美しいか汚いかどちらかだった。思春期って楽しいや。
あれから時が経って、負け惜しみみたいなトライアンドエラーを無数に繰り返して、結果修復不可能なエラーの負債を背負いながら乗りたくもない電車を待つ今を今日も生きてるけど。
「人々はばかげたユーザー名を作り、匿名でTumblrにジョークのスレッドを延々と作っていた。」楽しそうだなあ
何かに対する他人の「過度に感情的な反応」は自分にとっては不要な要素だと思う。それが自分の決断に重要な影響を及ぼすわけじゃない。色んな意見に触れることは大事だけれど、昨今のSNS空間でその目的が健全に果たせるかといえば、自分にとってはそうともいえない。
コロナ禍になって、Twitterをぜんぜん見なくなった。その話をする場所にTumblrを選んだ。TumblrだってSNSなわけだけど、らしくないのがTumblrのいいところだと思っている。あれから一年半経って、まだこの話をしたくなる世の中かあとは思うけれど。
ノヴァーリスの「青い花」(岩波赤)がKindleにあるのだが、試し読みをクリックすると「岩波版のサンプルはないのでペーパーバック版(独語)を出しときます」と表示されて原著を見せてきたので笑ってしまう土曜。
家に帰ってきてまた数十分とかで出かけなければならない時があって、暑いけど「すぐ出かけるのに靴下を脱ぐの面倒だな〜」と思って我慢しそうになったのだけど、よく考えたらべつに脱いだってまた履けば良いんだよな。サンダルに履き替えたって良いんだし。そう思い直して、靴下は洗濯カゴに放り込んだ。
できる人にとっては当たり前のことかもしれないけど、自分はこういうのが結構難しい。履き直す方が面倒な人は脱ぐ必要はないけど、嫌なら脱いでおけばいい。逃げてもいいじゃないけど、選択することに対してポジティブになりたいね。家の床は素足が快適だ。
Tumblrって(昔から)ひと気があるんだかないんだかよくわからないけど、今やそれがいいみたいなところはあるな。いい意味で昔のインターネットっぽさがある。収益化とトレンドキャッチを目的としないインターネット。あるいは、単なる痕跡を単に堆積してもいいと思えるような。
冬から春になっていく季節の移り変わりは楽しい。春から夏になっていくのは気温の上昇とともに意欲も意識も低下していき、生命を維持するので精一杯なので特段語ることはない。昨日あたりから朝晩少し気温が下がってきたので意識を取り戻しつつある。インターネット上での活動に適した時期は気温が25度前後かそれ以下を観測する季節に限られる。そんなわけでまたよろしく。
精神の調子が悪い時は何一つ面白くないし、いい時は最高に面白く読めるのがブコウスキーだと思う。何というかブコウスキー全般、ゼリーのカップに手を突っ込んでひたすら潰しまくった挙句、気付いたら全部溶けて液体になっていた時の虚無に大笑いしたい人生の人向き。
Tumblrが久しぶりすぎて、ブースト機能がいつからあるのかも知らない。いい感じのブログを書きたいといつも思っているけど、現実は散らかった部屋でうんざりしているだけだな。
花粉症の薬を取りに行った。今年はいつものとは違うものにした。今年は貼り薬もあるのだという。でも貼るのはもしかすると眠気があるかもしれないねというので、やはり当初考えていた飲み薬を処方してもらった。
会計時、受付に「私は花粉症です」シールが置いてあるのに気づいた。二年前からこの時期登場するグッズだ。また、そういう季節になったのだと改めて思う。と同時に、あれから世の中に起きたことのあれこれを思い返していた。
連日ニュースが続いている。ロシア大統領の行ってきた政治というものを考えた時、それは国の舵取りであると同時に、国際社会におけるロシアという自我の舵取りでもあったと思う。けれど今は一個人の不可解な自我の暴走にしか見えない。あまりに虚しい。
紙ものをいろいろ作る。一年ぐらい原稿を作っていなかったから、塗り足しってなんだっけなと一瞬考えたりした。作っているうちにだんだんいろんなことを思い出してくる。
寒いから茶、茶、茶、だ。新しいポットでいれるいつもの茶は美味しい。
読みさしの本があと二、三ページで終わることを思いながら家を出た。電車に乗って本を開くと、残ページは思いのほかあった。手に持っている感覚で、あとは解説だと思い込んでいたらしい。読み終えるまで四駅くらいかかった。解説を読んで、冒頭に戻り、それからぱらぱらとページを繰ると、数々のシーンが走馬灯のように駆け抜けていった。本をしまったあと、何をするでもなかった。ただぼうっと考えていた。火星と、核と、50年代と、そういう不安を考えていた。
新しいランチボックスを買ったので、早速使ってみる。今朝はパスタサラダを作った。コンビニで売っているもののように出来たと思う。買ってあったドレッシングがちょうどそれらしい味だったし、パスタの茹で具合も良かった。時短のためと思って前の晩から水に浸しておいたのだが、これがよかったのかもしれない。カット野菜とツナ缶を乗せて終わり。これにスープを合わせて、名探偵ポワロを見ながら昼を過ごした。
朝、角を曲がったところで路上に鳩が居て、互いに驚く。信号を待っていると向かいのマンションの生垣に猛スピードでメジロが突っ込んでいき、また飛び出していった。生垣からは色んな鳥の声がしたから、同じメジロかどうかはわからない。
ハーブティーのストックがなくなったので買い足す。カモミールだけでも六箱あったのに、いつのまにかなくなっていた。ハーブティーはカフェインでない水分として重宝しているし、水筒に入れるのにもちょうどいい。ステンレスで持ち運んでも、紅茶やコーヒーと違って味の変化をあまり感じないように思う。しかし今朝は冷まし足りず、昼頃まで熱くて飲めなかった。
風が柔らかい。昨日まで刺すように冷たい空気だったのに、途端に春になったみたいだ。空に向かって伸びている枯れ木のてっぺんが霞んで見える。蜂蜜みたいな夕日が空をいちめん薄く塗っている。
育てている植物の葉が増えてきたので少し切ってやる。冬場も植物は案外元気だ。水をよく吸うし、どんどん伸びる。草はいい。グリーンなんていう大層なものではなく、そのへんに生えている草すべてがいい。花もいいが、切り花の世話は案外大変だと思う。でも仲良くしてくれている人が買った花の写真を送ってくれたのを見て、ガーベラを一輪買った。
年始にジョエルコーエンのマクベスを見て、とても面白かった。不吉で滑稽で、作りもののようによそよそしいのに、我が事のように生々しい。なにしろモノクロなのが良かった。黒の禍々しさが映えて、底なしに美しい。光と影。
おかげで原著を読み始めた。マクベスは岩波文庫の木下順二訳が好き過ぎてこれまで原著を読もうと考えたこともなかったが、何がきっかけかわからないものである。言い回しはやはり難しいところもあるが、それを読み進めていくのが面白い。シェイクスピア作品は現代英語訳のシリーズがあるようなので、手に入れたいなあと考えている。