久しぶりに写真を撮る機会があり、フィルムを現像に出す。郵便局の窓口が混んでいる。みんな大きな荷物を抱えている。
ずっと読書をしている。今月は今のところ四冊読み終えた。最近クリスティーが面白くて毎月何かしら読んでいる。ポワロのドラマを見るためにアマプラでWOWOWのチャンネルに加入した。昼休みはこれを観ながら食事をしている。テレビのワイドショーが聞こえてこないように、両耳をイヤホンで塞いで観る。
短歌をもう少し勉強しようと思い、木下龍也さんと佐藤弓生さんの歌集を買った。うたらば12月号に三首投稿して一首採用してもらう。ただ、自分の作るものの良し悪しがまだ全然わかっていない。ひとまずインプットあるのみかと思っている。
日曜、「平成を見納めに行こう」ということで友人と連れ立ってパレットタウンに行った。お台場という場所に来ることが早々ない。下手したら小学生以来かもしれない。昔、東京観光に行くということになって張り切った母が日程表を作り出したのだが、パソコンに「お台場海浜公園」と打ち込んだら「お題馬鹿遺品公園」と変換されて二人で死ぬほど笑い転げた記憶がある。平成の話だ。当時は再訪が年号を跨ぎ、しかも閉園直前になるとは考えてもいなかったと思う。
夕方のパレットタウンは結構賑わっていた。せっかくだから観覧車に乗っておこうという話になる。もう夕方だからか待ち時間は5分ほどだった。ゴンドラの高度が上がっていくに連れて、窓の外の景色が広く明らかになる。フジテレビ社屋、レインボーブリッジ、東京タワーだのスカイツリーだの、絵に描いたような東京。反対側を見れば、近海郵船の大きな船体が夕陽に照らされながら停泊していた。その上を羽田を発った飛行機が過ぎていく。こんなにも近くで飛ぶ飛行機を見たことがない。あれもこれもすごいと二人でずっと騒いだ。観覧車は大体15分かそこらで一周した。降りた後真下で観覧車の写真を撮った。あの大観覧車をオートボーイルナで撮るのはいかにも平成で楽しかった。
私は自分の生活を振り返った時、ポストに放り込まれた整体や新聞購読やマクドナルドのチラシを捨てたことを忘れている。そうやってどんどん色んなことを取りこぼしていくような気がする。
観葉植物をいくつか育てている。ここ何年かはハーブだのレタスだの屋外で育てて季節が終われば片付ける、という土いじりばかりだったので久しぶりだ。早朝外へ出て葉の様子を見たり、受け皿を洗ったりする。冬の外気に晒されながら土とそこに生える草の世話をするより楽しいことはない。
最後に書いた日記の内容を覚えていない。特段書くこともなく、というよりも何かを誰かに知らせることの意味を全く見出せず、近頃インターネットには全然いない。前回、読書に関することを書いたかもしれない。そうか。読書は相変わらず捗っている。電車の中、寝る前、ほか。2014年に買った本が全然面白くなかったのは、続きものの2巻だったからだった。1巻を買って読んだ。痺れるほど面白かった。そういう季節を過ごしている。12月。
夏にリペアに出したカメラを久しぶりに持ち出したら、1本目で巻き上げダイヤルが回らなくなった。2回リペアに出したら同じカメラをもう一台買えると思うと腰が重い。とはいえ、買い替えるのも躊躇している。なんだかんだ十年は持ち続けてきたものだ。愛着もある。年数が経てばガタが来るのは仕方のないことで、その度に治療が必要なのは有機物と同じだ。この頃そういう諦めを理解しつつある。とはいえ私のカメラは私より既にずいぶん長生きだし、寿命というものがあるにせよまだ当分先のことだと楽観視している。
寒くなったと人は言うが、東京は全然寒くない。そういう街をくそったれと思いながら生きている。小説を書こう。短歌を詠もう。疲れ果てているけれど、やれることをやっていく。
モデルナ2回目を待っている。が、どうなることやら。世の中も世の中だが暑いというだけで気力が削がれるので早く涼しくなって欲しい。
ぼちぼち読書はしている。新潮文庫から出ている「銀河鉄道の夜」、特別装丁版を買ったは良いものの長らく放置していたのを急に見つけて昨日読み終えた。シグナルとシグナレスが特に良かった。いずれ花巻を旅行してみたい。
これまで自分の意見をはっきり言ったり立場を明確にすることは面倒だし、経験的に無益だと思うことが多かったのだけど、昨今の諸々でやっぱり大事なことなんだなあと思うなどしている。私の場合は積極的な意味合いより、自分を守るためというのが大きいけれど。考えの異なる者同士が互いに過剰な干渉をせず共存できればベストだと思うけれど、対立して壊れる関係ならそれもそれで構わないな、という、この一年少しの自分の変化。
やりたいこととやらなくてはならないことと山ほどありすぎるわりにどれもうまく進まないので、一周回ってなにもやりたくない気持ちになっている。本を一冊読むのに一ヶ月かかった。読みたいと思う本もあまりない。日本語原著は相変わらずだめで、いったん翻訳というワンクッションを経た他言語作品ならどうにか、というところ。というか実際は、カズオイシグロしか読んでいない。イシグロの文章はいい。翻訳もいいのだと思う。雰囲気はずっと淡々としている。淡々としていても情緒豊かだ。冷淡でもあり、暖かくもあり、不可解でもある。それはイシグロ作品が「過去」を多く扱うこととも関連があるだろう。が、ともかく、読み手を過度に煽らない文章に助けられている。
最近、オースターを読む人にイシグロをすすめてみた。両者は根底を流れている水のようなものが似ていると思う。そういうニュアンスでしかないところへ、どれだけ同意してもらえるかはわからないが。
こちらのnoteを読んで始めてみた。一日一枚撮って貼るだけなので簡単である。何はなくともとにかく一枚撮らなくてはならない、というのも結構楽しい。絵的には地味でもチェキならなんとなくいい感じになる(気がする)のもありがたい。
挟んである写真は相田諒二さんのポストカード。季節が変わればまた違う写真にする。
生来すぐにカッとなったり苛々しがちだ。私は自分の怒りが大切だしそれを捨てたいとは思わないけれど、最近自分の不寛容さと向き合って生きることを意識して生活している。他人のためではなく、自分のためにそうしている。自分のために生きるということを、やっと理解し始めた気がする。
買い出しをしたので料理。今日は煮込みハンバーグ、大根の照り煮、トマトのマリネ、胡瓜漬け、春雨サラダを作った。買い出しをした当日が一番料理をする気力があって、翌日以降は全然駄目というのが常だ。よって、今週はこれで大体なんとかする。
昨日から「バスキア」(1996)を見始めた。ウィレム・デフォーが若い。
TOEICだった。よく出来たとも出来なかったとも言えない。模擬テストの結果と学習アプリの予測スコアがほぼ同じだったので、それくらいであれば良いかなあと思っている。
地下鉄のエスカレーターに貼ってある注意喚起のピクトグラムをなんとなく眺めていた。大人と子どもが並んでエスカレーターに乗っている図。各配色は、注視すべき子どもが赤色、保護者とエスカレーターが青色、エスカレーターの安全ラインが黄色(これは実物通りか)となっている。良いデザインは直感的で実用的だ。
もし非常口のピクトグラムが緑色ではなく赤色だったら不安感を与えるのだろうなとホームに立って考える。こういう感覚は、緑はgo、赤はstop、黄色はcautionを示す信号機を連想するからか(それが全てではないにしろ)。そう言えばなぜ青信号はそのカラーであるところの緑信号と呼ばずに青信号と呼ぶのだろうと疑問を持つ。検索すると解説をしているサイトが色々出てきて面白い。電車を待つあいだ。
インターネットという社会を暮らすにあたり、私の場合はTumblrという家に引きこもって時々繁華街(情報サイトやTwitterなど)に出かけるという生活スタイルが合っているのかもしれない、とぼんやり思った。ニュースサイト然り、その他云々。Twitterを繁華街と言ってみたけれど、学校の教室みたいだとも思う。みんなが喋っていて、とめどもなく喋っていて、その中にいるのは楽しい時もあるけれど、下校して家に帰るとホッとする、というような。Tumblrを眺めるのはそれとはまた違った感覚がある。フォローしている人の投稿がダッシュボードに流れてくるのを見るのは、「町の図書館でよく見かける人にまた会った」とでも言えばいいのか。上手い比喩が見つからない。
自分のiPhoneを見て、イヤホンジャックがないことに今更しみじみと気がつく。かつてガラケーにアンテナがついていて、これをカラフルに光らせてみたりするという文化があったように、iPhoneを充電しながらジャックにイヤホンをさして音楽を聴くという行為は、これはこれで一つの文化だったのだと思う。イヤホンジャック廃止はそれ以前のやり方から言えば確かに不便な側面はあり、そのためにイヤホン用と充電用で二つの差し込み口がついたドックが販売されているのは当然と言えば当然だろう。しかしなんというか、この種の旧態維持が実現することによって得られる充足は、たぶんノスタルジーに似ていなくもない。
西日が強く、舗装されたアスファルトが歪んで見えた。どこかから漂ってくる味噌汁の匂い、辿々しい調子で繰り返されるピアノの音色、ひたすら続いている音読の声、内容のはっきりしないラジオの音声、玄関前に立って上空を過ぎ去る飛行機を見ている人、廃業したクリーニング店の中に干されている家族の洗濯。フェイクグリーンみたいに見える植物たちと、人の目みたいに見える壁のネジ。「私」にとっての「あなたがた」は永遠に繰り返され、あまりにも多くの人生が同時に存在している。
ムーンパレスにはナイトキャップ的鎮静作用を感じる。のめり込んで一気に読み進めるというよりは、少量ずつ内服する感じ。「幽霊たち」を読んだだけでオースターが好きですなんて面をして生きてきたけどこれからはちゃんと読む。
トマト缶と玉ねぎと豚肉だけのカレーを作った。キャベツとじゃがいものサブジを合わせて、全部を一混ぜして食べる。ビースターズを読み始めた。漫画はレンタルで読みたいと思いつつ、結局は買い揃えている。
電源の落ちたスマホの液晶に部屋の中が映り込んでいるのを見て、乾くことのない水溜りのようだなと思う。先日、亡くなった祖父の夢を見た。通夜の番をしている時に近い内容だった。スマホの暗い画面を見て思い出したのは何故だかそのことだった。こういう沈黙は、自分の心象の反射を認めているに過ぎない。
浅草にあるMISOJYUというお店のメニューに「スパイシーツナ」なるおにぎりがあるのを見て食べてみたくなり、自分でなんとなく拵えてみる。水気を切ったツナ缶にマヨネーズとチリパウダーと黒胡椒と醤油を入れて和える。ちゃんとおにぎりにして、きのこと豆腐の味噌汁と食べた。小さいことでも新しい試みを自分の生活に取り込んでいく。ことを絶やさないでいたい。
フォローしている方の投稿を見て、面白そうだったので買った。執筆陣に好きな作者が多かったのと、特にウティット・へーマムーンの名前があったのは大きい。届いてすぐ「心焦がすサイゴン」を読んだ。感情がねじ切れるかと思うほど良かった。へーマムーン氏の描くタイ人はチャオプラヤ川を原風景として強く抱いている。異国においても川は彼らの意識から切り離されることはなく、どこにいても彼らのチャオプラヤ川に繋がっている、そういう強い感情を今作にも垣間見た。生きることと国あるいは政治というものが強く密接し合い、混じり合って肉体をなす人々の人生。その、一場面。
SXSWでの上映にイライジャウッドが来ていてマジかよ〜〜となった話、ただただ楽しそうで良い。
上りエスカレーターのステップに引かれた黄色い線が延々と繰り返されてレターパットみたいな顔をしているのを見て、この機械を上っている時我々は背後に向かって無意識に何かを物語っているのかもしれない、と思う。一段ごとに誰かの一人ずつ違う物語が、発生しては粛々と進みやがて機械室に巻き取られて消え、素知らぬ顔で下から出てきては新しい誰かの物語を語る。上り切れば散り散りになって再び集まることのない我々の。
http://um1aut.tumblr.com/ask
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